先程の問題点とは、少し論点がずれますが、少々気に掛かるので意見します
ここのところ、議論の中で「やりがい」という言葉がキーワードになっているようです
しかし、僕はこの極めて曖昧な言葉が、より議論を感覚的でわかりにくくしている気がします
はたして「やりがい」とは何なのでしょうか
語彙的には、「やって甲斐のある(仕事)」と考えられます
ここで考えたいのは、「やる前から甲斐があるとはどういうことであるのか?」と言うことです
結論から言えば、そんなものは存在しません
課題と言うものは、期待→取り組み(闘争)=応望→結果→評価と言うプロセスを踏みます
それぞれのフェイズに置ける事の大小・難易度の差はあれども、このプロセスのどこが欠けても、意味を成しません
仕事に甲斐があったとは、このプロセスが全うされてこそ存在しうると僕は考えます
また同時に、その結果に玉川さんが依然仰られていた、「自分のため=相手のため=皆のため」と言う図式が成り立たなければ、「甲斐」など有り得ないでしょう
単に自分の為になるだけならば、単なる独り善がりであり、甲斐=自我に過ぎません
(あと付け足すならば、課題の「未明度」が高いほど、甲斐があると考えられます。なぜならば、未明度が高い課題に取り組むと言うことは、それだけ皆の期待を背負っているということであり、またその結果に捧げられる評価も当然高いからです)
こういったプロセスを見据えず、事の始まる前に「甲斐」を求めても、そんなものは空虚ではないでしょうか
「甲斐」とは、何度も何度もこのプロセスを繰り返す中、「評価」と「実績」が積み重なる中でこそ実感されるもののはずです
ろくに課題に取り組みもせず、仕事に対して「甲斐」を求める若者の姿は、闘争忌避の逃げのように感じますし、無いもの強請りの要求主義とも取れます
また、やたらと「甲斐があった」と言うその姿は、課題策定が甘いか、もしくは単なる自己満足のように感じます
「我が社はやりがいのある職場」ですと言う企業側の言葉にも、なにか胡散臭さを感じます
一体、何がどういう風にやりがいがあるのか、事細かに説明して欲しいものです
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